ここ一週間ほどこの問題に注視してきて、この問題に対するスタンスが若干シフトしてきましたので、自分自身の整理の意味合いも込めて現段階の思うことを書き連ねようかと。
基本的なスタンスとして「基本的人権侵すべからず」ってのは明確な意識としてではなく、暗黙の意識として持っていたと思います。
それは、この件で明確な意識にシフトした事以外変わってません。
そういう認識の元で当初この法案を見たときにはこの法が極めて恐ろしい法であるように感じました。
それは恐らく「大多数の人が上記の認識であることが容易に想像できる」中で、”人権”という言葉の元に行われる行動に関しそれに反対を表明することは「人権侵害者」という印象を他者に与えるという想像(であり確信)があるからです。
これはつまり人権(擁護)委員から何らかのアプローチがありましたって事が知られた段階でアプローチを受けた人間はある種の差別主義者(:レイシスト)のレッテルが貼られる事を覚悟しなければならないという事に他ならないからです。(人の口に戸板は建てられない の例えの通り。)こうなった場合、被疑者は社会的に失墜しその回復は極めて難しくなるでしょう。
であるならば、人権委員および人権擁護委員に十分な資質を問わねばならないはずですが、残念ながら同法においてそれを確約できるほどの信頼を置くことが現在の行政を見る限りできかねています。
今回の一連の反対運動のバックボーンにも同様の心理が働いているのだと推察できます。
an_assusedさんの日記3/19に書かれているところの

もう一つは、本法案が今の日本が抱える問題の一部分をよく映し出しているように思えたからです。具体的には、政治的中立性を確保する制度というものが全く信頼されていないこと、「人権」という言葉は同一人物にとって使うことも使われることもありうるはずなのに、論者が “使う側”と“使われる側”にきれいに別れてしまっていることなど、何が主たる問題なのかわからないくらい、いろんな問題が背景にあるように思えたのです。

が、まさにこれを指摘しています。
さらには(不勉強が故と言われると反論できないが)条文の分かりにくさ、曖昧さが様々な誤解を生み、前述の心理状態と併せてある意味ヒステリックな反対論の盛り上がりに直結しているのではと思います。
条文がなぜあのような記述になっているかは、BI@Kさんの3/19のエントリ「人権用語法反対論批判リジョインダー(その3)」より、

これは法学のいやらしいところなのですが、法律用語は日常生活で用いられる言葉と完全には置き換えは不可能です(そうでなければ弁護士の存在意義がなくなってしまいますが(笑))。an_accuesdさんのご意見は立法論・政策論として価値のあるものだと思いますが、解釈論としてはとり得ない可能性が高いです。
というのも、法律の言葉遣いは同じように書いてあれば同じように解釈しないと、法律を見ても意味がさっぱりわからないということになってしまいます。ですから、日常生活での語感を持ち込んで、この法律のこの文章はこういう意味だ、と言葉遣いのルールを逸脱すると、かえって社会的混乱が大きいということになります。

という部分と、日本語表現の曖昧さを日ごろから実感しているのも併せて納得がいきました。
しかしながら、その法の適用を受け制限または権利を得るはずの国民がその完全な意図を独力で知ることが難しいという状態がアリかナシかという問題はありますが、本件の意図から逸脱するためここでは論じません。
では、法律(または法律案)を論ずるに当たっては、正当に法律を評価できる人間にのみ許された権利であるかというとそうではないはずで、それを不毛な議論にしないためには双方の理解を深めなければならないという課題を浮き彫りにしたのかと思います。
法律論については極力専門家の認識(BI@Kさんやan_assusedの日記さんのやりとりなど)を参考にするというスタンスを取った場合、この法案は法律の専門家の想定の範囲内で運営される場合それほど危険なものではないのかも、と感じるようになってきました。しかし、かといって前述の行政不信も相まって現行のまま法案を通してしまうとかえって行政不信に拍車をかけることになるわけで。


というような考えに至り、反対のための反対運動になりそうな現状を鑑みた結果、もともとこの法案が解決しようとしていた事案をいかにして解決するかの対案を出さないことには始まらないとスタンスを変更します。
そうなると、過去のエントリで発言している内容との整合性が取れなくなる箇所が少なからず発生すると思われますが、自身への戒めも含め該当エントリを削除するのではなく、このエントリと訂正エントリへのリンクを追加する形で今後は対応していこうかと思います。