617 : <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん : 2008/02/24(日) 11:54:56 ID:b0DDmavq
中国と韓国、友情の歴史

サルフの戦い
 建州女真を統一し、1616年に金(後の清)を建国したヌルハチは、1618年、ついに明に対する攻撃を開始、遼東
における明の拠点を次々に陥落させた。

 これに対して明はヌルハチの金を討伐することを決意、遼東経略楊鎬を指揮官とした47万人を号する大軍を動
員、属国である朝鮮にも援軍の派遣を命じた。朝鮮は出兵を嫌がったが、先に文禄・慶長の役で明に救援しても
らった恩があった上、宗主国の命令とあって断ることができず、都元帥姜弘立に1万人の兵を率いさせ、遼東に向
かわせた。ただ、朝鮮の王は密かに姜弘立に、積極的には戦わず、敵に降伏するよう命じていた。

 準備不足の明軍は兵の結集に手間取り、本格的な討伐は翌1619年に持ち越された。

 楊鎬は全軍を4つの軍団に分け、4方向からヌルハチの本拠地である興京を包み込むように進撃を開始させた。
朝鮮軍は遼陽総兵劉挺の軍勢に従い、丹東付近から北上、東南から興京を目指した。

 これに対してヌルハチは、興京で明軍全てと一度に戦うことを避けて各個撃破を計ることにし、まず興京北方の
サルフ近辺において、山海関総兵杜松率いる明軍を急襲壊滅させたのを皮切りに、迅速な機動によって各地に
展開した明軍を次々と攻撃、壊滅させていった。

 朝鮮軍が加わった劉挺率いる明軍は、興京の南、アブダリにおいて金軍と遭遇、包囲攻撃を受けた。激しい戦い
の中で劉挺は戦死した。姜弘立率いる朝鮮軍は攻撃を受けると、早々と降伏してしまい、まだ戦っていた生き残り
の明軍の将校たちは味方であったはずの朝鮮軍の裏切りに絶望して自害し、この方面の明軍は全滅した。

 この戦いにより、遼東において明に対する金の優位が決定的となり、ヌルハチは大きく勢力を伸ばして、後の清
隆盛への礎を築くこととなった。一方、既に衰退著しかった明は、以後内乱が続発し、坂道を転がり落ちるように
滅亡へ向かうこととなる。

【東亜日報コラム】5000年間助け合ってきた韓国人と中国人ではないか。互いに侮辱するのはやめよう ★2 [02/20] * c

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