人権擁護法案反対ではない意見に対するトラバだったわけだが。
(;:´_ゝ`) やっべ。ここ修正忘れてた。


当時はRiR6氏の言うとおりまとめサイトに近いスタンスでエントリを書いていましたが、現在は上記サイトとは異なるスタンスにあるということを元にトラバに反応してみます。
トラバのエントリを修正していなかった点に関しての否はすべて私にあると予め明記しておきます。
お断り:引用部分に関して、文章の体裁を整えるため行頭や引用府に若干修正を加えています。


1.これらのまとめサイトの主張は基本的に「今の状況が一番良いのだからそれを変えるべきではない」という認識のもとに成り立っています。

そんな主張は見たこと無いんですが。
見た限り反対派の主張は「現状に問題があるのはわかっているが、その対処法としてこれはいくらなんでもあんまりだ」かと。

だったら何で対案を示さないのか?現状を変える方策を示せないんなら、幾ら心の中で祈っていたって他人にとっては「現状肯定」と捉えられても仕方ないんですよ。

これは、「残り数日で法務部会を通過してしまう」というあの時点で、

(当時の認識において)問題提起をするにあたり対案を示している時間がない。ゆえにまずは(当時の認識において)反対する理由、懸念事項などを列挙することで広く世間に訴えかけよう

という趣旨であったと考えるのは些か好意的に捕らえすぎかもしれませんが、ここまで広く議論が起こっているという現状はある意味まとめサイトを含めた各個の功績であるとも考えています。
(ただし、方法論については完全に賛同するものではありません。)
ここで議論を滞らせることで、現在も差別に苦しんでいる人を救済することが遅れてしまうではないかという意見も見られますが、それは反対派のみが糾弾されるべきものではなく、人権議論を国民に浸透させることができなかった人権擁護局や、充分な説明をしないまま法務部会の議論を打ち切ろうとした推進派議員達も等しく糾弾されなければならないと思います。
しかしながら、現在も対案を示していないことを肯定するものではなく、また、そのような姿勢も見せておらず、更には明らかなミスリードも修正していないまとめサイトとは方向性が違いすぎるため、現在は異なるスタンスをとっているということも併記しておきます。

大体、もし現状が酷いことが分かっているのなら0
(引用者注:以下の部分に関連しないため省略しました。以降は下に引用してあります。)

正直、現状が「酷い」かどうかは体感としては分からないです。幸い(?)なことに、同和差別や外国人差別といった問題が体感できるほど表面化している地域に在住したことも無いため、その程度問題がどうなのかという事を述べることはできません。しかし、それらの差別が存在していることは「知識としては」認識しており、それが問題であることも認識しています。
(ハンセン病患者が宿泊施設への宿泊を拒否された件は報道などから知っており、個別には酷い事件であったとも思いますが、それが即ち全体の問題かどうかという判断も付きかねます。)
この問題が発生するまで私自身「人権に関して、認識しつつも無関心」であった事は確かですし、多くのBLOGの記事やそこに寄せられるコメント、さらには私の周りにいる人たちの反応などを見る限り似たようなものだと思います。

大体、もし現状が酷いことが分かっているのなら、その現状の酷さを示して、具体的にその現状の酷さと、この法案によって生じる不利益を比較し、そしてこの法案によって生じる不利益の方がまだ大きいことを示すべきでしょう。しかし既存のまとめサイトでは、法案の不利益のみ主張し、現状に於ける人権侵害の酷さは一切示していないんです(一応「差別は容認しません」とか書いていますが、具体的な差別の実体を書いていない以上、それは単なる口実と受け取らざるを得ません)。それなのにどうして「現状に問題があるが、それよりこの法案の不利益の方が大きい」なんてメッセージが受け取れるのでしょうか?私はエスパーじゃないのです。

これは、上記に記した「人権に関して、認識しつつも無関心」であった事に加え、人権擁護法案を誤った法解釈(*1)で認識した結果、言論弾圧を誘発する(し得る)という認識から、即ち「現在差別を受けているマイノリティを保護するために、全体の言論の自由を侵害する」ことは不利益の方が大きいとしていたものです。

しかしながら、現段階で不利益の方が多いと必ずしも言えるものではないと考えています。
若干本筋とは違いますが、現在、私は「人権侵害の酷さは一切 示していない」に関して、最も非難を受けるべきは法務省および人権擁護局というスタンスを取っているので、推進派と反対派それぞれの手法を論ずることは避けておきます。
(両方等しく間違っていると思います。)


上記のまとめサイトなどでは今人権擁護法案が上がってきたことは部落解放同盟が裏で動いているからだと主張し、そして部落解放同盟周辺に生じている問題を取り上げることによって部落解放同盟を批判して、「そのような団体が推進している法律は廃案にすべきだ!」と主張しています。

( ´_ゝ`)?
解同が動いているかいないかよりも、解同のような問題を起こしてきた団体に染められた人間が人権委員会に名を連ねることが可能なシステムのセキュリティホールを主張しているだけかと。

何で問題のある団体の筆頭として部落解放同盟が出るのでしょう?単なる例の一つだと思うには余りに出る回数が多すぎるでしょう。

程度問題であるなら(個人的に、民潭や総連を人権団体だとは思っていないという背景もあり。)それだけ有名だということ以外に主たる理由はありません。

大体、「法案を作った人々は良くない人々=法案は良くない法案」という論理を唱える人々は、「じゃあ別の良い人々がこのような法案を作ったら、あなた方は賛成するのですか?」と聞かれたら、一体どうするのでしょう?

なら5の

要するに、ヘイトスピーチ(=差別言説)の権化みたいな人なんですね。まぁ、それだから、自分のヘイトスピーチが規制されるのを恐れてこの法案に反対しているのでしょうが……つまり、この人のまとめサイトを紹介して法案に反対すると言う事は、「自分は差別容認の人物です」という宣言に等しいんですよね。そのような宣言をする気がない人は、絶対にこのまとめサイトを好意的に紹介するのは避けた方が良いと思います。

は全く説得力が無くなるわけですが。( ´_ゝ`)

「法案」に於いてはその提出者の資質は問題となりませんが、「言論」に於いてはその提言者の資質は問題となります。何故なら、「法案」はそのシステムによって提出者の意志が(法案内に盛り込まれない限り)その法の執行段階において介入しませんが、「言論」はその言論の発話者の立場を盛り込んだ形で作用するからです。

法案と言論の発生元の資質に関してはその通りです。
しかし、現在のように「法案の提出者(自民党)と執行者の実質的な承認機関(与党≒自民党)が極めて近い」場合に、可能性が低いとはいえ法の執行段階において介入しませんというのは一概には言えないと思います。

例えば、黒人同士が互いのことを「ニガー」と呼ぶことは差別ではありませんが、白人が黒人に対し「ニガー」と呼ぶことは差別に当たりますね。この様に言論というのはその発話者の資質によってその意味が全く異なってくるのです。

ここで例えられている黒人のメンタリティがいまいち理解できないので、具体的な反論やコメントは留保しますが、何となく言わんとしている事はわかります。


3.上記のまとめサイトなどには難しすぎてよく分からない、要はどういうこと?という風に「考えなくても分かる」という印象を与える表現や、人権擁護委員やこの法案を作ってる人たちに負のイメージを持つ画像を被せて、あたかも彼らを完全な「悪」とみなし、自分たちを正義の味方である様にしている表現などが多々あります。

いや。そもそもそういう表現ができてしまう事をセキュリティホールと呼ぶわけですが。

訳が分かりません。何故まだ出来ていない法案のセキュリティホールによって今現在の言論が操作されるのでしょうか?

・・・自分で読んでもさっぱり訳が分からない。
失礼しました。
この件に関してはRiR6氏の意見を全面的に肯定し、私の述べた部分を全面的に撤回させていただきます。


4.上記のまとめサイトにおいては、「言論の自由」は「言論を言いたい者がそれを制限されることがない」という意味でのみ捉えられています。つまり、自分が何か言おうとしたときに、無理矢理刑務所に入れたりしてその言論が発表できない様にするとか、そういうことのみを「言論の自由」の侵害として、捉えている訳です。
しかし確かにそれも「言論の自由」の侵害の一部ではある訳ですが、それが全てではない。何故なら、その様な形での「言論の自由」の理解には、「人間は他の存在によって影響される」という観点が無いからです。

自由には須らくリスクが伴うわけで、そういう意味では自由という言葉の中に「人間は他の存在によって影響される」と捕らえることもできるっつーとややこしくなるから割愛。

割愛するということは認めるということでよろしいのですか?

少なくとも私が認識している範囲において、この問題の本質とは関係ないので割愛です。
なら、あえてツッコまなければ良いという事であればその通りです。
失礼しました。


結論→ ( ´_ゝ`)

文字で説明する気がないならBLOGなんてやめちゃえ

人の意見に反論するのに文字(文章)で説明しなかった非礼については謝罪します。
しかし、BLOG云々については申し訳ありませんが大きなお世話です。


基本的に賛成派と反対派の一番大きな乖離点は「国会議員を信頼するか否か」だろうと。
確かに私自身国会議員を賛成派の諸氏ほど信頼しているわけではないですし、政治不信が叫ばれてる中世の中の多くの人々も同じようなものでしょう。
それはBI@Kさんとこでも(どこか忘れたけど)日本の政治の限界なんだろうと。

だから何で「信頼する/信頼しない」の二択なのかと、「ある程度信頼する」っていうのは無いんですか?僕は、日本の国会議員は確かにイラク戦争に関してなどの考えでは馬鹿だけど、差別言論以外の言論を規制する程馬鹿ではないと思います。
もし国会議員を完全に信頼していないのなら、その人は国民の責務として抵抗権を行使しなきゃ駄目でしょうね。

「国会議員を信頼するか否か」と書くと確かに二択と読めますね。ここは「国会議員をどの程度信頼するか」と訂正します。
その上でRiR6氏の例に倣うと「議論を封殺して強行採決する程度の馬鹿」だと思います。(特に自民党)
もちろん強行採決という手法が全て問題であるとも言いませんが、イラク特措法などまだ議論の余地がある中で採決を強行してきた事実もあります。
(これに関しては野党もだらしない所はあったのも確かですが)
時間的な制約や、その他内外の事情などから強行採決により決議する意義がある場合もあるでしょう。
しかし、些か強行採決を乱発している印象があります。
その結果上記のような心象を抱いています。
「もし国会議員を完全に信頼していない0に関しては国会議員個人として信頼している人はいますが、全体として見たと信頼するに足るかと言うと疑問です。
これは現在の選挙制度の問題でもありますし、政治に無関心な国民性(自分も含め)が招いた結果であるとも言えるでしょう。
私自身の感覚では、国民はだんだんと政治に関心を持ちつつあるように感じており、現状は過渡期であると考えます。
その結果、国民が国会議員を、国会を、政治を信頼できるようになれば、この法案もすんなりと通るだろうと思いますが、現段階では若干時期尚早かと思います。


最後になりましたが、RiR6氏、反論ありがとうございました。